田母神論文を考えるー2

秦氏の反論では「  「検証」では
秦  国民党内にコミンテルンのスパイがいたから、蒋介石コミンテルンに動かされていたなどと言うのは、「風が吹けばおけ屋がもうかる」式の強弁だ。張作霖爆殺事件も、コミンテルンの仕業という説が「極めて有力になってきている」などと田母神論文は書くが、歴史学の世界では問題にされていない説だ。
張作霖爆殺事件が関東軍の仕業であることは、首謀者の河本大作はじめ関係者が犯行を認めた。このため田中義一内閣が倒れ、「昭和天皇独白録」でも、「事件の首謀者は河本大作大佐である」と断定されている。他にもコミンテルン謀略説の論文があちこちに出てくるが、いずれも根拠となる確かな裏付け資料があいまいで、実証性に乏しい俗論に過ぎない。 」

と言っているが、近年の歴史研究ではソ連側の犯行説が出てきている。有力説とはいえないながらも「歴史学の世界では相手にされていない」とは秦氏の独善的な解釈であり、直接関与していない昭和天皇が【「昭和天皇独白録」でも、「事件の首謀者は河本大作大佐である」と断定されている。】と決めつけることは出来ない。天皇が何をいおうがそれは証拠にはならない。

関東軍すなわち河本の関与は噂されていたが、当局が公式に認めたことはない。しかし、河本が東京の知人に「張作霖の一人や二人死んでもいいじゃないか」という私信を送っている。もっとも、関東軍自身がどこまで関与したかは不明であるが、河本の野心的な行動を黙認していたとされているが、それが河本本人の犯行の証拠にはならない。

張 作霖はもともと馬賊という盗賊の類の出身で、ソ連のスパイでもあった。それを日本が逆スパイとして教育し、ソ連の情報を日本に流していた。清朝に帰順し、革命勢力を弾圧した功績で中将・陸軍師団長に昇進した。共産主義者への弾圧を行うなど、日本の協力者として活動している。(1928年)4月、改めて国民革命軍を組織しなおし、欧米の支持を得た蒋介石が再び北伐を始めた。張は防戦するが、今度は欧米の支持を失ってしまった。日本政府も張作霖を扱いかねており、山東出兵(第2次)によって済南で蒋介石軍と衝突するものの(済南事件)、蒋介石から「山海関以東(満洲)には侵攻しない」との言質を取ると、張に積極的な支持を与えなくなった。日本にとっては厄介な存在ではあったが、殺さねばならない人間ではない。

張はソ連のスパイから日本のスパイに寝返っており、それだけでもソ連側の暗殺の理由になる。しかも彼が犯人とされる証言も東京裁判でされており、周知のとおり不公平な裁判で知られ、これも外交官などの伝聞を証拠とされており、これが真実なのかどうか首を傾げざるを得ない。秦氏は学問的に決着がついているなどと、勝手に決めつけているが、歴史を翻されることはいくらでもあることなのである。

田母神氏の説も有力ではないが、秦氏も絶対ではない。